埋めていけるかな?
053:君と僕の間には埋められぬ隔たりがあると、誰かが言った
かつんかつんと放課後の静けさの中で廊下に靴音が響く。運動部の掛け声や定期的にやり取りされるボールの跳ねる音や打ち返される律動。仮入学の身であることもあってライは部活動に参加していない。生徒会に参加していると言えばそうかもしれないが、記憶探しや軍の仕事が入ればそちらを優先してくれて構わないといわれている。宙ぶらりんだと思う。豪奢な造りの窓硝子から射す夕日がカーテンを透かして淡色にぼやける。教室にいても仕方ないと思って歩きだしたが目的さえない帰宅時刻をライはもてあましていた。所属を決めた軍属の拠点はこの学園に近く、行こうと思えばすぐ行ける。だからこそ足が鈍った。ライの周りは優しい人たちばかりで、それが余計にライを倦ませる。記憶がないことを同情ではなく憂慮してくれ、手掛かり探しや探索にまで付き合ってくれる。身体検査も好意で受けさせてもらった。その結果はライをがんじがらめにしただけだった。だからライは茫洋と人気のなくなっていく校舎内を歩き回った。アッシュフォード学園は生徒数が多く、ブリアニア人やイレヴンと言った社会的人種を気にせず受け入れるマンモス校だ。生徒数も多い。だからライが一人あてどなくふらついていることなど誰の目にもとまらない。
「ライ!」
屋上につくなり声がかけられた。先客だ。スザクだった。枢木スザクと言ういささかこの国において奇妙な名前であるのは彼が、イレヴンと名前を変えられた日本人だからだ。日本人名なので名誉ブリタニア人申請を受理されてもなお、学園では多少の嫌がらせを受けたとも聞く。鈍感なようで動きや理解は俊敏だ。侮れない奴であることに変わりはないし、ライが所属を決めた軍属の数少ない同僚でもある。
「…スザク」
「どうかしたのかい、ライ。なんだかすごく落ち込んでいるようだけど」
心配そうに体をかがめて顔を覗き込む。ライはうっすらと笑って何でもないよ、と返事をした。
スザクとは命をかける現場の同僚と言うこともあって隠しごとなどはあまりない。だがライは絶対に他人には知られてはならない能力を持っている。その能力の暴走はライの大切な人たちを奪っていった。王の力、と別称されるその能力はお前を孤独にするぞ、気をつけろ、と夢枕に忠告されたのをまだ引きずっている。大多数の全ての人類と違う理に生きる僕は神から疎まれこそすれ好かれることはないだろう。時限爆弾を抱えているようなものだ。その状態でホイホイ友人や恋人など作れないし作る気さえも起きなかった。だがスザクはそんな壁さえ乗り越えた珍しい性質の友人だ。それでも覚悟はある。もし僕がどうしようもなくなったら、スザクに僕を殺してもらおう。それを最後のギアスとして取っておくつもりである。
「落ちこんでるように見えるかい? 試験結果がよくなかったからかな」
あはは、と笑うのをスザクは笑いもせずに凝視していたがぽんと手を打った。
「ライ、この日はセシルさんが非番でいいって言ってくれた日だから遠足に行こう。集合場所は校門前。休講日だから人はいないだろうし厄介も少ないと思うんだ。この時間に校門前で立ってて。迎えに行くから」
さらさらと紙片に日付と時刻を記入したものをスザクがライに押しつけた。確かにこの日は二人ともこなくてよいといわれている予定だ。
「スザク? 一体なんだい? しかも遠足って」
「遠足だよ。二人で行こう! 楽しみにしててね」
スザクは一人で納得したように顔をほころばせて微笑みながら、うんうんと頷いている。
「愉しみにしてて! あ、動きやすい格好で来てね!」
そう言うなり踵を返して駆けていくスザクの背中と紙片を、ライは交互に見つめた。
その期日には何のこともなくきた。出動要請も運良くなかったし、困り顔を見かねたロイドやセシルに日付や時刻を確かめるも、非番でいいとあっさり許可が下りた。だからライは洗いざらしのジーンズをはき、白いシャツを着て濃紺で薄手の外套を羽織って出かけた。晴れ渡れば暑ささえ感じるのに曇ればいまだに肌寒い。行楽にはまだ少し早い時期だ。休講日であるから校門前で人待ち顔なのはライだけで通行人さえライを気にしない。学校が休みの日に学生は遊び歩くという公式は常識であるようだ。
「ライ!」
スザクが大きく手を振りながら駆けてくる。葡萄茶のオーバーにはフードがついていてそれを背中へ流している。淡色のシャツは襟が刳れていて鎖骨が覗く。カーキ色のズボンに足首まで固めた短靴だ。少し膨らんだザックを背負って駆けてくる。
「待った?」
「いや、それほどは。なんだか山登りでも行きそうな格好だな」
「遠足だからね! と言っても本当に山に登ったりは出来ないからそこは我慢してほしいな」
そう言いながらスザクはライの手を取った。そのまま引きずるように引っ張っていく。
二人で街中を歩く。スザクはあちこちと説明して回ってはあれは面白い、あれはちょっとな、と批評する。ショッピングモールを回り、ライは出会ったばかりの頃のことを思い出して人知れず笑んだ。あの時の相手はカレンだったが、スザクの説明も面白い。やはり男女で目線が違うのか着眼点が違う。スザクはブライダルショップは素通りするがゲームセンターは覗きたそうだ。
「ゲームセンターかい? やっていくか」
「だめなんだ。一度パンチングマシンに挑戦したら機械を毀しちゃって。店員からすごく怒られてしばらく出入り禁止になっちゃって。射的もレースも記録を塗り替える楽しみが減っちゃうから来るなって言われてね。ロイドさんに相談したら、君は常人じゃあないからねぇしょうがないねェとか言われちゃったんだよ。だから興味はあるけど駄目なんだ」
あははは、とスザクが笑う。だめなんだと残念そうに言う割には気にしていないらしく陰りは感じられない。
「ロイドさんか。僕もプリンを踏みつぶしてから罰だとか言われてシュミレーション連続でやったなぁ」
「それはちゃんと断った方がいいよ。あの人、嵩にかかる人だから遠慮を見せると調子に乗るんだ」
二人で歩きながら話がはずむ。ライは久しぶりに愉しい時間を過ごしていると実感できた。スザクの話は面白いし、同僚であるから共通の話題もある。戦闘機は体をすっぽり包むから軍属として派手な戦績を持つ二人でも素顔は市井に知られていない。素性を隠す手間がないのはありがたかった。
「スザク、どうしてこんなことをするんだい」
面と向かって問うてもスザクは困ったように笑うだけで、食事のときにでも話すよとはぐらかして、ねえあれはどうだろうと指をさす。噴水のイルミネーションだ。溢れ出る流水は循環され、その水が紅や碧に変わる。そのままショッピングモールを出ると二人とも租界の公園へ落ち付いた。空いているベンチを探そうとするライを制してスザクが桜の木の下にザックを下ろした。
「桜があったなんて嬉しいな。お花見って言うんだよ、ライ。こうして桜を見ながらお酒を飲んだりご飯を食べたりするんだ。昔からある日本の風物詩さ」
何が入っているのだろうと思っていたザックからは敷布が取り出される。防水加工の施された敷布がパリパリと音を立てながら広げられていく。
「ライ、その辺の石でいいから、大きめのものを見つけて。四隅を留めるんだよ」
ライは慌てて地面に目を這わせた。整備された公園と言うものは案外応用がきかない。なかなか手頃な石を見つけられないライの背にずしっと重みが乗った。スザクが体を投げ出すように抱きついているのだ。振り向くことを赦さず、耳朶に息を吹きかける。
「ライ、君は一体何が心配なんだ」
君の境遇かい。人種? 過去かな。それともこれから? スザクは珍しく歌うように言葉の羅列を奏でた。ライも無理に振りほどく気はなかった。のしかかってくる重みは温かくてライが反抗しようとする気をくじいた。
「君にはオレがいる。オレは絶対、君を守って見せるから。一緒に戦うんだから当然だろ? ライのことはオレが守るよ。あらゆることからオレが守る。ライを困らせる奴みんな、オレが斃してあげるから」
刹那、ライはスザクが毀れているのに気づいた。スザクは過去に何事かを経験している。そのほのめかしは本人から受けていたから承知していたがここまで深くしかも病巣化しているとは気づかなかった。だが。
「僕は僕が誰なのかも判らない。君が守る価値なんてないかもしれないよ。そこらへんの浮浪児かもしれない。髪も目もブリタニアともイレヴンとも言えないし。中途半端で訳が判らない僕を守ってどうするんだよ」
「僕が…オレが、ライを愛してるからだよ」
だからそんなことどうだっていいのさ。スザクはあっさりとそう言ってくすくすとライの耳朶で笑んだ。ライの亜麻色の髪は日光に透けて毛先へゆくほど蜜色に透き通った。薄氷色の双眸は感情に連動するように群青の陰りを帯びたり爽やかな蒼色へなったりする。皮膚は白くて肌理細かい。睫毛までが密色に透けるのでそれ自体が発光しているように煌めく。スザクはライの耳朶へ何度も唇を寄せてキスをした。
四隅を荷物で留めた敷布の上へ押し倒される。ライも格闘をたしなむ身として受け身の取り方くらい知っている。スザクは透き通る亜麻色で密色の髪を好きながら色を変えるライの双眸を愛しげに眺めていた。ライが見れば四隅はスザクの靴と荷物とで留められている。
「ライ、好きだよ。愛してる」
それは嬉しい。けれどそれに絶望する。
ギアスという特殊能力を帯びたライの体はこの世の理と異なる時を刻む。真っ当に生きるスザクと交錯はしても寄り添えない体なのだ。だから、ライは。
黙るしかない。嫌いだと突っぱねることもできる。でもライはスザクを嫌ってはいない。戦闘のたびにライをフォローし、手助けをし、時に命さえ救ってくれた。嫌いだと突き放すのが最善であると判っていてなお、ライはスザクに期待を持たせる修羅の道を選ばせる。スザクが言ってくれるスキが、ライは好きだった。
きみはぼくのものなんだ――だから、おやすみ
誰の声かも判らない。だが絶対的で逆らえないことだけは判る。そしてライはそれに従うのだ。
「ありがとう、スザク」
ほわり、とライが微笑む。それだけでスザクは顔を真っ赤にして体を起こした。ザックをごそごそ探って大きな包みを引っ張り出す。
「…ぼ、僕ので悪いけど、『オニギリ』を作ってきたから。本来の『オニギリ』はこういうものだからね? セシルさんのあれはちょっと…アレンジが強いから…」
お寿司は作れなくてごめん、と謝るスザクにライは構わないと笑って体を起こした。ライスが不格好な三角に握られている。オスシも楽しみにしてるよ、と笑うと食べに行った方が美味いし早いよ、と困った顔で返された。
「オスシってそんな難しいのかい」
「一般人は作らないよ。お客さんとかが来たときに出す店屋物でね、本来自宅では作らないよ、あまり」
カパ、と開かれた弁当箱には唐揚げや厚焼き卵が詰まっている。
「これはなんだい。見たことないや」
「太巻きだよ。でんぶやかんぴょうなんかを巻いてね。太いから太巻きって言うのかな、くわしくは知らないけど、こういうものだって教えられて育ったから」
スザクの説明をいちいち受けながらライはもぐもぐと口を動かす。学園の食堂で出される料理とは系統からして違うようだ。味は薄めだがけして安っぽくない。
「ぼくも料理本とにらめっこして作ったから…不味いかな」
遠慮がちに窺うスザクにライはにぱっと笑って見せた。スザクがほっとしたように表情を弛める。
「美味しいよ。セシルさんが作る奴とは全然違うけど、これも美味いし」
「本来はこういう感じなんだよ? セシルさんのはオリジナリティーが強いから…」
もしかしたら甘党なのかもしれない、と本気の顔で考え込むスザクを横目にライは太巻きや厚焼き卵を消費していく。箸をたどたどしく使うライをスザクが微笑ましく見ている。
「スザクも食べれば。美味しいよ。お世辞抜きで」
「ありがとう」
二人で弁当をつついた。公園の桜がはらはらと散る。淡色の花びらが舞う。スザクが用意してきた紙コップに粉末を入れ湯を注ぐ。
「具がなくて悪いけど、即席の味噌汁だよ」
「ミソシル?」
「お豆腐とかと一緒に煮たスープってとこかな。即席だから具がなくてごめんね」
ずず、とすすると味噌の風味がふわりと広がる。
「今度は即席じゃない味噌汁が欲しいな」
どんなものか興味あるよ、と言えばスザクがじゃあ今度作ってくるよと請け負う。
「不味い?」
「美味いよ」
しばらく二人で食事を楽しむ。ひと段落したところでライが問うた。
「ところでこれが『遠足』なのかい」
「そう。お弁当持っていろんな場所を回って楽しんで。特に多いのは山かな。小高い山に登って頂上でお弁当を広げるのさ。麦茶とか持ってね。ゴールまでの道のりを愉しんで最後にお弁当で愉しみを締めくくるんだよ」
「日本人は面白いね。ハイキングやピクニックみたいなもの?」
「そんな感じだよ」
行程が難しくなるとお菓子なんかも持っていくんだよ。スザクが愉しげに語る。水筒の中身がね、その家々の味があって面白いんだ。烏龍茶や麦茶や、甘い麦茶を携えてくる子もいてね。スザクは愉しげに過去を語る。それはその過去が永遠に戻らないと承知しているかのように潔く明瞭だった。
スザクにそうなんだ、と言って同調できない自分がもどかしい。理を違くして生きる自分にそんな甘えは許されない。孤独こそが己。それを十分に承知しているはずだった。
「ライ、どうしたの」
「なにが」
「泣いてる」
箸を咥えたまま、ライの双眸からほろほろと涙が溢れた。弁当は美味いし、気候もいい。ライが泣く理由はスザクには判らないだろう。だがそれでいいのだ。ギアスと言う名の王の力は能力者を孤独にする。その意味が実感としてライに襲いかかっている。埋まらない隔たり。それでもせめて、今だけは。
「ごめん、お弁当が美味しくて」
何か言いたげなスザクだが何も言わずに黙る。スザクは己の欲望を抑えるのに慣れている。戦慄いた唇は何も言わずに閉じられた。ライはそれに罪悪を感じながら感謝した。スザクの眦から一筋の滴が伝う。
「君が泣くと、僕も哀しいよ」
「ありがとう」
泣きながらライが笑った。不格好で不器用で、それを判っているからスザクはなんの指摘もしない。
「泣かないで。お弁当がしょっぱくなっちゃうよ?」
「そうだな」
ごしごしと目元を擦る。紅く腫れるのをスザクが泣きだしそうに微笑んだ。
「遠足って、良いね」
「またやろう。今度は君がお弁当を作ってよ」
どちらからともなく寄り添うと口付けを交わす。公園であることはすでに頭から消えている。公園でのんきに弁当を広げる富裕層に民衆は無関心だ。
「好きだよ、ライ」
埋まらない溝。異なる理。ライは言えなかった。巻き込むのが怖かった。それよりも。
拒絶されるのが怖かった。
「ありがとう、スザク」
それが精一杯だった。
《了》